※たくさんお寄せ頂いたお声から、一部を掲載致しております。 |
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気功ヒーリングを受けられた方の感想 |
●Y様 ![]() お世話になっています。本日はヒーリング、本当にありがとうございました。 以下、弟からの感想です。 「脳出血の後、左半身の麻痺で10年間だんだんと衰える体力を感じていたのですが、魔女のヒーリングの後、どこから湧き出るのかフツフツと新しいエネルギーを感じ、足が自然にポンポンと前に出る感覚を味わいました。また魔女の布を固まった左手に乗っけると心地よいツンツンとした痛みを感じる程のエネルギーを感じました。 これからどのような変化が起こるのだろうと、希望にワクワクしています。 たった一回のヒーリングの後で。」 弟の固まった肘が伸び、喜びで感動している姿を見て私共も感動しました。 改めて魔女のパワーの凄さと、ヒーリングをしてくださったことへの感謝の気持ちで一杯です。本日はありがとうございました! ●S様 ※栃木癒しフェスタにて 件名: 感謝感激です。心より感謝申し上げます🙇 私の友人ですが、5年前に高齢出産をしたのですが、自然分娩中に、脳出血をおこし、右半身不随になりました。現在、言語障害、杖をついてなんとか歩け、右手は、感覚がなく、握りしめて開かず、という状況でした。魔女なら、なんとか良い状況にもっていけるのではないかと、小冊子、魔女リーモ、トランプ使うよう事前に渡してありましたが、なかなか、身体が不自由なので、東京までは、難しく、今回、宇都宮に魔女がいらして頂き、是非、友人にも魔女のヒーリングを受けて、何かしら、変化をもたらしてくれればいいなと思っていました。 その友人に案内をおくりましたが、前日まで何の連絡もなかったので、諦めていましたが、なんと、来てくれて、魔女のヒーリングを受けてくれました。 魔女のヒーリング中に、私は、彼女の子供の相手をしながら、聞いていたので、魔女が、彼女に伝えたこと全部は、わからないのですが、魔女がヒーリングの最中に、友人と握手したいと思ったそうです。 でも、右手は動かない。そしたら、動かない右手を左手で包んで、胸の前に手をおき、私は癒されました!と、マリア様にお祈りしなさい と。それを、三回繰り返し、魔女が、友人の手の甲を何度も何度も擦って下さり、指をうごかすと、なんと、握りしめていた指が、一本一本開き初め、手を開く事が出来ました 驚愕です。 本人は、指が開いたことより、手の甲に感覚を感じなかったので、魔女がトントン叩いたという感覚が感じられたことに非常にびっくり していました。 魔女から、友人に対し、動かない、しゃべれない、できない と思う枠を外せ、と。 そして、ご主人が、もっていたのが、木のはしきれで作ってある、枠(友人娘がイベントで当てた木の枠。)をみて、正に、天の計らい。天に一つの間違いがないと、更なる認識をさせられました。 もう、号泣号泣 しきりです。奇跡を目の当たりにした魔女っ子も、皆、もらい泣き です。 本当に魔女には感謝の気持ちで一杯で思い出すだけで、感謝の涙 がでます。本当にありがとうございます。 今回、私の叔母、母に対しても、的確なアドバイスを頂き、本当に感謝しております。 本当に本当にありがとうございました。 魔女、最高です👍 ●熊本県 K.I様 指先がずっと痛かったのです。 何をしても治りませんでした。 ヒーリングの時、指がピクピクしました。 すると、ヒーリング後には、ピタッと痛みが治りました。 すごいですー!ありがとうございました。 また、受けたいです。 ●栃木県 S.N様 昨日の東京セミナーに初参加させて頂いた栃木県のS.Nです。 午前中のセミナーは、とても楽しく奥の深い話ばかりで、あっという間に時間が過ぎてしまいました!本当にありがとうございます。紹介してくださったHさんにも感謝です。 午後のヒーリングでは、魔女さんとの会話自体が癒しになるんだなぁと実感すると共に、きっと今が色々な転換期なのだと思う様になりました。 帰りに頂いたトランプで、約束通り今朝、昨日の事に感謝しながら今後の方向性を と思いながらトランプをひきました所、 ![]() と出まして!! びっくり仰天!鳥肌が立ちました。 ここまでとは∑(゚Д゚)! ●熊本県 T.T様 平成28年3月29日 母は光となりました。享年83歳 28日に誕生日を迎えた翌日でした。 病院を転院して16日間 毎日会いに行けて お話できた事がなによりでした。 松本先生に講座等の参加が難しい状況を伝え ジャストに来ていた魔女っ子からも励ましてもらいました。 魔女から 「上手にうえに上げるのが貴女の役目だよ❗」と言われました。 納得しましたが 日々弱って行く母を看ているのは辛いものがありました。 点滴だけで絶飲食の状態。お水が大好きな母です。しかも氷水! そんな母から水分を奪うなんて とんでもない!誤臙して熱発してもいいからと コットンに水を含ませ口にくわえさせました。少し驚いてましたが 吸う仕草をしたので飲んでくれたと思います。結果 熱発しましたが… それでも数日続けました。水…水…うわ言の様に言っていた母の願いでしたから。 数日たち なぜだかジャストへ電話をしていました。何かにすがりたかったのだと思います。遅い時間でしたが 松本先生が魔女がいるからと取り次いでくださいました。 魔女:「 お母さんに 私が光りになるときは向かえに来てねと伝えなさい。それが上に上がってからの仕事だよと 」 早速母にお願いしました。朦朧とした意識のなか 「ウンウン」と返事してくれました。聞き届けてくれたのです。とても安心しました。が、それは母の温もりを感じられる時間が あと僅かなのだということも意味していました。 亡くなる前日 仕事に行くから待っててねと言うと イヤイヤと母は首を横に振りました。その事がとても心残りです。 29日 仕事中に何か感じ ふと目をやると 大きくてキレイなふわ~っとした光がありました。何だろう… そしてまた同じ光が目線の先にありました。あっ!と思ったら 病院から電話がかかってきました。 ![]() 午後3時33分の事でした。最期に会いに来てくれたようです。 急いで病院に向かいましたが 前の車がなぜかゆっくりと走ります。車が変わりますが それもゆっくりと走ります。「慌てて来なくていいよ」と言っていたようです。車のナンバーが二台とも神様数字でしたから。 ![]() 母の表情は穏やかでした。迷うことなく光となったようで 安心しました。 ある夜 魔女から「お母さんここにいるね 貴女が笑っているのが一番好きだっていってるよ」と母からのメッセージをいただきました。有り難いことで またまた涙がこぼれました。 魔女 松本先生 ジャストスタッフ方々 輪になって祈って下さった皆様 ありがとうございました。魔女っ子の皆さんがいてくれて感謝します。 ジャストスクールに出会ってなければ 私はこの世にいませんでした。今私がこうして生きていられる事に感謝します。皆さんと私の後ろの方々が動いて下さったお陰様です。 母が亡くなったあと ひまわりが来るようになりました。メッセージのようにいつも笑って過ごしていきます。 ありがとうございました。 ●神奈川県 N.M様 父 (享年94歳)の逝去に際して ~光としての旅立ちを祈り見守って~ 残暑続くなか、父 94歳は、平成28年9月2日(木)16時、永眠致しました。 実家より歩いて5分の病院でした。 家族に見守られ、眠るように安らかに大往生の昇天でございました。 癌が発覚した昨年11月下旬頃から、魔女には、髙平神社など、幾度となく父の病気平癒と光への旅立ちを祈っていただきました。そして、私自身が父を光として見送るべく、その心構えと術(すべ)をお教えいただき実践しました。その甲斐あってか、父は癌の痛みは全くなく、およそ最期まで意識も頭もしっかりしておりました。肺に転移していましたので、声が出づらく話すことが難しい状態で、最期は呼吸が大変苦しそうでしたが、家族が見守るなか、見えないだろう目を開き、ニコッとなんともいえない慈愛の笑顔で、逝くぞ!と声が聞こえたような・・・ そして、フッと息を吸い込み、息を引き取りました。。。 やせこけた顔ではありましたが、お陰さまで満足げな大変いいお顔で、火葬までほとんど硬直がありませんでした。 大往生であったと思います。有難いことでございます。。。 魔女に見守りいただき、支えていただいて、またジャスト社員皆さま、会員の皆さまにもお力添えをいただき、お陰を持ちまして、父は無事に光のもとへ逝ったようでございます。 魔女、皆さま、本当に有難うございました。心より感謝申し上げます。 「お父さんを光にするのは、あなたの役目です」として、魔女からご指南いただき、私がしたこと、また死に至るまでの軌跡は、まさに私にとりましては、ある意味、奇跡を見せていただくことでもありました。どういうことであったのか、以下にご報告致します。 父は大正10年10月6日生まれ。小柄ではありましたが、人一倍元気で、20歳年上の兄を40歳代に胃癌で亡くしたことから、病気になるまいと人一倍健康には気を遣い、度重なるポリープ切除、80歳を過ぎてからの人口関節の手術など数多の病気を全て乗越え、100歳まで生きることを目標としていました。83歳まで現役で働き、90歳頃まで車を運転し、その後は電動自転車を乗り回し、親戚はじめ皆さんから驚かれるほどの気力と体力の持ち主でした。 趣味も多彩で、庭つくり、盆栽、スキー、ヨガ、お謡(うたい)(観世流)、書道(毎日書道展無鑑査)など、枚挙に暇がありません。。。中でも、お謡は50年近く、書道は30余年続けていました。書道は昨年3月、突然きっぱり止めるとして筆を折り、お謡は、昨年11月の内々の発表会まで続けていました。その発表会のとき私は丁度帰省していて、袴を出してくれとのことで用意して送り出したところ、帰ってきた父の余りの疲労振りにビックリし、点滴が必要なのでは?と姉と相談したのを覚えています。その頃から声がかすれてきて、姉が病院に連れて行ったところ、肺がんであることが分かりました。その時は歳も歳なので、癌治療は止めて自然に任せようと、医者と合意しました。とその矢先、自宅の寝室で転び、背中をひどく打ったようで、痛くてたまらん!ということで救急病院に行ったところ、圧迫骨折と共に大腸癌であることも分かりました。開腹手術や抗癌剤は、高齢の体に負担をかけるだけなので、やめることにしました。しかしながら大腸の患部が狭窄していることで、お通じで苦しまなくてはならないことが明白なので、お尻から内視鏡で腸の幅を広げるステンレス管を入れたほうが良い!やわらかいものしか食べることはできなくなるが、その方が本人は楽になる筈。とのお医者様から説明があり、すぐさまその処置を行ってもらいました。今思えば、そのステンレス管を入れなければ、父はこの9月まで余命が無かったかもしれないのです。転んで背骨を強打しなければ、肺癌とされたまま、病院にまめに通うこともなく、大腸癌で、腸が狭窄していることを知らぬまま、本人はお腹が詰まって大変な思いをしたことでしょう。。。多分、浣腸をかけたくらいでは、解決しない状況に陥ったと思います。 まもなく年末年始休暇、明日で年内の手術関係は終了というギリギリの時に、大腸患部の処置が間に合ったのです。なんとラッキーなことでしょう。転んで本人は大変痛い思いをし、大変かわいそうでしたが、このことで大腸癌を知らせていただき、処置ができたのです。しかも癌は、大腸癌が先で、肺に転移していて、レントゲンに移らないほどの骨粗しょう症になっていたことも分かったのです。80歳代で人口膝関節の手術をした時は、医者からビックリされるくらいに骨が丈夫であったのに。。。 医者からは、持って半年・・桜は見れるかどうか。。。3ヶ月か・・1ヶ月かもしれないし・・・と死を覚悟するように言われました。 そして、歳が明けて1月、この病院から療養型の病院に転院しました。転院できた療養型病院は、自宅から歩いて5分。なんと近くて便利。これも奇跡です。また、父の入院に伴いデイサービス型で入所していた母を特養の方に移設してもらうことにしました。そろそろ特養の方がとケアマネージャーと話をしていた矢先で、主に母を看病していたとする父が入院したことで、特養への移設に直ぐに認可がおり、しかも、母が入所していた上の階の特養エリアにすぐに空きができて、すぐさま、母が特養に入所できることになったのです。これも奇跡です。 また、これら一連の父の腸の処置や母の特養への移設決定や手続きなどが、クリスマス前からお正月明けまでの間に進み、私のちょっと長めの年末年始休暇中に出来たのです。 これも奇跡です。 <魔女からヒーラーとして伝授いただいた実践内容> 父の余命が限られていることを医者から宣告されたことで魔女はことある度に、あれやこれやと父を思いやって下さいました。 ① 私が光に送るというヒーラーとしての覚悟をすること。 ② 父へヒーリングをすること。 ③ 祈ること。 ④ 父に光に向かって迷わず逝くこと。今度はあなたが光になって子どもである私たちを天で守ること。そして私たちが天に昇る時は迎えに来てね。ということを伝えること。 などです。 <魔女からの伝授に基づき、ヒーラーとしての自覚のもとに実施したこと> 6年前から痴呆症の母のこともあり、1ヶ月に一度、土日を利用して帰省していましたが、癌と分かって毎週、5月の連休からは1週置きに帰省しました。お昼前までに帰省し、およそ毎日、昼に父を見守り世話をしている姉に代わって、帰省の日は私が病院へ行きました。 最初は、病院ということもありなかなかヒーリングのタイミングが掴めず実施できなかったので、マジョリモ入りクリームのマッサージが多い状態でした。 ◇帰省時に、ヒーラーとして病院で行ったこと ① マジョリモ入りクリームでの顔、手足のマッサージ。 ② 軽いヒーリング。 ③ アロマのフランキンセンスをアルコールで希釈し、ベッドの周りに撒きました。 *これは、姉にもしてもらいました(姉は消毒と思っていたのですが)。 ④ ベッドの4隅に光の柱を建てて、光で父を包むイメージをして、結界を張りました。 父に「お父さん、お母さん(私にとっては祖父祖母)が、何か、お父さんに言っていない?」 と聞いてみると、「別にない。」という答えが返ってきていましたが、次第に、眠りながら、ウンウンと頷いていることが多くなりました。また、何かが見えているようで、目の前をこれは何だ?というようにキョロキョロ見ている時がありました。 ご先祖様や何かがお出ましになって、何かを父に伝えていたのではないかと思われます。 いつも父へは、「有難う。お父さんの娘で良かった。お父さんのことを、姉も義兄も姪も甥もその子どもたちも皆、大好きだよ。感謝してるよ。 お父さんのお陰で幸せだったよ。」「お父さんの人生は素晴らしい。ほんとに凄かったよ。 お父さんはとっても幸せな人生だったよ。」「幸せないい夢を一杯見てね。」などと耳元で伝えました。 顔、手足を擦ったり、抱きしめたり、頬を寄せたりとスキンシップもしました。 7月に入り、食事の後、新聞を読むことなく、すぐ眠るようになってきた父の耳元で、 「光が見えたら、迷わず躊躇することなく、光に向かって進んでね。」そして、「天上で私たちを見守ってね。私たちが光に帰るときにお父さんが迎えにきてね。」とやっと2~3回伝えました。父は、目を閉じたままウンウンと頷いていました。 この頃から魔女からの伝授の言葉を、やっと父に伝えられるようになりました。 ◇実家で行ったこと 父は、実家の自分の寝室に、父の両親や亡くなった兄や姉たちの写真を額に入れて飾っていました。お正月頃から、この額の写真を仏壇と思い、お茶、お水、お菓子などをあげて、先祖の皆さまへの心からの感謝を申し上げ、先祖の皆様の幸せと父のことを祈りました。 神棚にも心からの感謝と祈りを奉げました。この祈りの時は、いつも号泣でした。 祈り(願い)はこのような内容でした。 ① 父・母・老齢の親族がそちら(光)へ帰る時は、必ず明るく皆さんでお迎えに来ていただき、光に連れていっていただくように。 ② 光に帰るその時には、家族全員でお見送りが出来るように。 ③ 癌の痛みが無いように。 特に6月頃からは、痛々しい姿で光に帰らないように。三次元での肉体と思えないようなかわいそうなことにならないようになさって下さいと祈りました。 ④ 父が光になる時がきたら、早めに必ず教えてください。 ⑤ 家族が仲良く、明るく安全安心健康で豊かに暮らせますように。 ⑥ 実家の敷地の四柱に光を張りました。 ◇父への祈り ①光になる覚悟ができたら必ず教えてくださいね。 ②天上界で私たちを見守って下さいね。 ③私たちが天上界へ逝くときが来たら、必ず迎えに来て下さいね。 ◇生活のなかでの祈り ①延命十句観音経を唱えた。(魔女からも原文をいただきました) ② ご先祖さま、両親へのお詫びと感謝。 ③大いなる方々へ、父の癌の痛みが無いように。 ④父が安らかに光になりますように。 ⑤ ご先祖様が父を光でお迎えに来ていただけるように。 ⑥ 家族で父を光にお見送りできるように。 <そして起こった奇跡> *前述と重複しますが記載します。 ① 癌の痛みが全くなかったこと。モルヒネを打ちませんでした。 ② 自宅で転んで背中を圧迫骨折して痛い思いをしましたが、そのお陰様でそもそも大腸癌であったことが分かり、大腸癌患部にステンレス管を挿入でき、詰まりによる苦しみや圧迫、最悪の開腹手術を回避できました。しかも、病院が年末休暇に入るギリギリセーフで、この処置に間に合いました。歳を越していたら、更なる体力低下に繋がったことと思います。 ③ 母がこのタイミングで、すぐに特養に入所できました。入所して、精神的に落ち着きました。 ④ これら一連の父の大腸癌への処置や母の特養への移設決定、そしてそれらの手続きなどが、クリスマス前からお正月明けまでの間に進み、私のちょっと長めの年末年始休暇中に姉と一緒に出来たこと。 ⑤ 1月に、実家から歩いて5分の療養型病院へ転院できました。完全看護で、お風呂にも入れていただけるし、着替えや髭剃りまでしてもらえます。食事も美味しい。そういう環境へ移ることができたこと。 ⑥ およそ9ヶ月の癌闘病生活の中で、最期まで父の意識、頭がしっかりしていたこと。 ⑦ 8月上旬まで自力でベッドに起き上がり、なんとか自力で食事をし、自力で排泄をしていたこと。 ⑧ 旅立ちの前、8月お盆過ぎ頃、私の頭の中に、「逝くから」という父の声が聞こえました。私には、現実としてなかなか捉えることはできませんでしたが。。。 ⑨ 旅立ちの前に同じくお盆の頃、父は姉に何か訴えました。声がかなり聞き取り難かったので、姉がここに書いてとメモをわたしたところ、父はなんとか力を振り絞って「(母の名前)○○○・・・・」云々と書いたのですが、姉には母の名前しか読み取ることができず、「母は元気だ」とメモにして見せたのだそうです。葬儀後、家族で家に帰り、そのことを思い出した姉がそのメモを皆に見せて、姪、甥が解読したところ、「(母の名前) 屋上の方への旅」と記されていたことが分かりました。母に「自分は、天に逝く」と伝えて欲しいということだったのです。父は、自分の死期が分かっていたこと。 ⑩ 亡くなる前日、9月1日(木)の午前、血圧が下がったと病院から姉に連絡が入り、姉から電話をもらいました。帰る時期かと躊躇しましたが、上司から帰ったらと言葉をいただき、意を決して帰りました。16時に山形に着き、病室へ。呼吸が苦しそうで、もう目を開かない父の耳元で、「私だよ、帰ってきたからね。甥はもう直ぐ来るよ。姪たちは土曜日の朝、帰ってくるよ。」と伝えると、頷く父。父の手を握り顔や足を暖め、胸に光を送りました。すると、血圧が戻り安定してきたのです。父は、待っていてくれたのです。看護士さんが、「容態が安定しているようなので、今夜はお帰りになっても大丈夫ですよ。」と仰ってくれたのですが、姉・義兄と相談して、私一人が念のためということで、家族室に泊まる事になりました。 一晩明けて、2日(金)の午前中も容態が安定。看護婦士も大丈夫だからとして、姉と交代して、実家に帰りました。この間、もしものことを考え、姉の懸念で、父のお骨が実家に帰ってきたときに安置するための部屋の大掃除をしました。 終わって家族で昼食を取り、一息ついた14時過ぎ、病院から父の呼吸が乱れていると連絡が入りました。慌てて病院へ。そこには、父の甥ご夫妻が訪ねてきてくれていて、父はその甥の手をギュッと握り、話しかける言葉に頷いていました。父の甥ご夫妻が帰られた後、父の手を握りながら一杯声をかけました。家族がいることを確認した父の手は次第に力が入らなくなり、冷たくなりました。そして16時、永眠しました。 絶妙なタイミングです。父の実家のことを甥ご夫妻に託し、お骨が帰る部屋の掃除の時間をつくり、家族が揃ったところで、息を引き取ったのです。 姪と子どもたちは、臨終に間に合いませんでしたが、ホーチミンから帰国し、自分のお通夜、葬儀には間に合い、ホーチミンに戻るまで、少しゆっくりできる時間を姪に残したのです。臨終に間に合わなかったことを姪は悲しみましたが、決してそうではないことを姪に説き、日を追うに連れてそうであったことを理解していきました。 全てが絶妙のタイミングでした。 ⑪ 臨終近く、それまで感情を表さなかった義兄が、「お父さん、しっかり・・」と父の手を握り泣き崩れたこと。 ⑫ 私が「光へ・・・」と父へ言う言葉をいぶかしがっていた姉が、最期には、父の耳元で「光に向かって行くんだって。分かった?」と大声で言っていたこと。 ⑬ 魔女から、8月長野でのセミナー後に電話をいただき、「お父さんの乗る船の準備が出来たよ」と言っていただいたこと。 ⑭ 父の臨終の頃、魔女はイギリスの空に鳩がパーッと舞うのを見て、光になったことを感得されていたこと。 ⑮ 姪も甥も自分のすべきことをしっかりできたこと。 ⑯ 姪と甥の子どもたちも、父の葬儀中は、おとなしく静かに見守れたこと。 ⑰ 父のお顔の表情は安らぎに満ちていました。遺体はとても綺麗で、体こそ痩せこけてしまっていましたが、胸の皮膚は真っ白で、ピカピカツルツルだったこと。癌とは思えません。 納棺のお清めの前に、綺麗好きの父であったので、耳や鼻、足指などをアロマで拭いて清めました。遺体であっても父と思うと愛おしいと思いました。 ⑱ 88歳米寿の時の、写真館で無料撮影してくれた記念写真が、遺影と成ったこと。 ちゃんと父は用意していました。しかも、笑顔なので、その遺影に語りかけると、全てを許して包み込んでくれるような気がします。皆さんからいい写真だと褒めていただきました。 ⑲ 病室で眠るなか、父は自分の一生を振り返り、様々なことを思い、徳を積むことができ、自分の一生に満足、納得して、もう思い残すことは無いと思ったのではないでしょうか。。。 有難いことです。 なんとか、母に合わせてあげたかったのですが。。。きっと、魂で会いに行くと思います。。。 ⑳ 高齢での葬儀にもかかわらず、多くの方々にご出席いただいたこと。有難いことです。 このように、なんとか願い通りに父を看取ることが出来ました。 大変長文になりまして、恐縮でした。 私にできたことは、ほんの少しでした。 家族がいてくれて、一緒に協力して見送ることができました。 思えば、父は体力知力のギリギリまで健常で暮らし、もうダメかも~というところで入院し、 父なりの人生のけじめ、人としての在り様を私たちに示してくれたのだと思います。 有難いことです。これを受け取り、私はしっかり生きていかねばと改めて決心致しました。 魔女に勇気をいただき、見守っていただき、そして、ジャストの皆さん、一緒にセミナーを受講している皆さんに、暖かい言葉やご厚情をいただき、皆さまが傍にいてくださって、どんなにか心強かったことか。多少ヒーラーとして父を看取ることができましたことを、心から感謝申し上げます。有難うございました。 本来であれば、このお月見セミナーに参加し、直接御礼申し上げなくてはいけないところ、 書面になりましたことをお詫び申し上げます。 お月見の宴、セミナーがご盛会であります様に。 これからも、どうぞご厚誼いただきますようお願い申し上げます。 御礼にかえまして、ご報告致します。 以上 ●熊本市 A.M 様の実体験 夫が会社の健康診断で再検査の通知をもらってきたのは、ちょうど高平神社のお月見の舞の練習が始まった頃、昨年の9月半ばのことでした。私は心配で正直舞の練習などできる状態ではありませんでしたが、魔女との1年前からの約束でしたし、そのころトランプで、約束、約束、と続けざまに出ていたこともあり、とにかく、この約束だけは守ろうと舞の練習に出かけていきました。その舞の奉納が終わった直後に夫は再検査を受け、結果は肺がん。それもリンパ節転移のあるステージⅢでした。夫は一年前にも人間ドックで不安定狭心症が見つかり、ステントを入れる治療をしたばかりでした。当然毎月通院しておりましたし、半年前には胸部CTもとっていたので、こんなことが起ころうとは夢にも思っていませんでした。呆然とする夫を見て、とりあえず「私がしっかりしなくては」と思い、どうにかして夫の気持ちだけでも楽にしてやりたいと思った時、ちょうど魔女のヒーリングの枠があったことを思い出しました。藁をもつかむ思いで魔女に電話しました。 「相性の良い医者を選ぶように、そして、あなたが元気でいないとだめだよ。」と言われました。そして夫は1枠あったヒーリングを受けることとなり、夫を待つ間なにげに魔女の作ったおみくじを引いて中を開けると、「困ったことは宇宙試験ですよ」と書いてあったのです。 本当に、さーっと鳥肌がたったのを覚えています。私は覚悟を決めました。 そのころ、朝起きてふと浮かんできた言葉が、〝とうとがなし〞です。奄美の言葉で 〝感謝して祈る〞という意味だそうです。初めは、その言葉の意味すらよく知りません でしたが、夫と話し合い、毎日自分の体に感謝し、平穏無事に過ごせたことを感謝して 寝ることを約束しました。 リンパ節転移があり、手術ができなかった夫に勧められた治療は、抗がん剤と放射線治療でした。がんの治療にはたくさんの方法があり、他にも親切に教えて下さる方もありましたが、どれもこれという確信がもてるものではなく不安が募るばかりで、済生会病院で勧められる治療をそのまま受ける決心をしました。 治療は、月1回の抗がん剤の点滴とあわせて、飲み薬の抗がん剤の2週間の服用、それと並行して、放射線1日1回を計30回の照射です。夫と毎日毎日車で病院に通う車中、あわのうたを歌いました。本当にこのあわのうたに救われました。1人で車を運転しているときも言いようのない不安にかられることもありましたが、あわのうたを歌うことでなんとか乗り切れたような気がします。夫もまた、治療の際は自分の体に感謝し、あわのうたを歌っていたようです。 こうして、治療に通いながらも、本当にここで良いのだろうかと、迷うことも何度もありました。そんな時に、最初に私を導いてくれたのが、33の数字でした。車で病院に通っていると、何となく33のナンバーの車が寄ってくるような気がするのです。駐車場に止めると、後ろの車は、3333しかもピンクのリボンつき!! そんなことで「ここでいいのかしら」と漠然と思えるようになりました。そうして過ごしているとすこしづつ良いことが起こるようになりました。1万円の宝くじが当たったり、スピリチュアルの苦手な夫にもわかる形での色々な励ましもありました。魔女が言うとおりに細胞再生の儀式をやっていたおかげか治療の副作用も軽く、ほとんど髪の毛も抜けることもありませんでした。 「何も悪いことは起きていない。これでいいんだ。」と自分に言い聞かせ、夫は月1回のヒーリングを受け続けました。 そんな時、次に来たキーワードが〝箱〞でした。トランプで〝ふたをあける〞がでるのです。ふたをあける?魔女の言葉「神様の言葉はとてもシンプル」を思い出し、かたっぱしからふたをあけました。ふと目に入って前日に買ったくまのクッキーの箱を開けると、旭山動物園のホッキョクグマのピリカの絵が入っていました。ピリカ?アイヌ語?アイヌは魔女のキーワードとシンクロです。調べると〝きれい、美しい、治る、よくなる〞これだ!!涙があふれてきました。これが私に初めて来た〝大丈夫だよ〞のメッセージでした。 私には、こんな温かいメッセージ、そしてジャストに行けば、魔女や松本さんはじめスタッフの方々との他愛のないおしゃべりで病気のことを忘れ、リラックスする場所がありましたが、夫はひとりで自宅近くの江津湖公園に毎日出かけていき、丹田呼吸法、気穴浄化法、そして、自分で考えたストレッチや筋トレをやり、自分の体と向き合っておりました。つらかったと思いますが、つらい、痛いとは一言も言いませんでした。 こうして治療を続けていると、ある日、主治医の先生から「リンパ節の転移が消えたら手術を考えてもよいかもしれませんね。」と言われたのです。夫の顔色がぱっと明るくなるのがわかりました。でも、私は逆に複雑でした。手術ではないと思っていたからです。 〝切らずになおす〞というメッセージもきていましたし、魔女が何度も何度も繰り返し大魔女のがんの治療について、「手術しなかったらもっと生きられたと思う」と言っていた意味を考えた時、これは手術してはいけないと思いました。でも、夫を説得できるだろうかとそんなことばかり考えていた時です。ジャストからの帰り道、たまにはあわのうたでなく元気の出る歌をと思い、車のHDDをさわっているとトラック№33の数字。これでいいやと思って聞いた曲が大好きな小田和正さんの「キラキラ」でした。 ゆらゆらゆら心は揺れる キラキラキラ時は輝いている 今もう一度約束する
決して君のことを裏切らない 遠くに見えるその夢をまだあきらめないで 必ずそこまでつれてゆくから 私は車の中で泣きました。神様は私の心をお見通しです。助けてくださるんだと思いました。それも大好きな小田さんの曲を使って私にお知らせくださいました。 これが、3番目のメッセージでした。 12月に入り放射線照射の予定の30回が終わり、抗がん剤の治療も2回目が終わりました。そして、CTとPETの検査をすることになりました。するとなんと2か所のリンパ節転移が消え、元々の部分も半分以下になっていました。とてもうれしい結果でしたが、ここで手術の話がもちあがってきたのです。 この頃気になっていたのが〝ツバメ〞でした。何度も何度もツバメの絵のついた服を見たり、ついには家の周りをツバメが飛びはじめました。なんで今頃ツバメ?と思い、気になっている頃に魔女がブログで親指姫と言い出しました。 そして、夫婦で呼吸器外科の部長先生の手術に関する話を聞くことになりました。 手術には大変なリスクがある(放射線治療をしているので) 根治をめざすには手術しかない 大きなリスクがあるので決断は家族でしてほしい 決断されたからには全力をつくします 移っている影が焼け焦げ(放射線治療の)という可能性もある ということでした。焼け焦げ?冗談じゃない。焼け焦げかもしれないのにそんなリスクを冒して手術をするなんて・・・ 夫は手術をすると言いました。私はしてはならないと思いました。放射線科の先生にも医者である夫の友人にも相談に行きました。でも皆口をそろえて根治するには手術しかないと言うのです。 たぶん「絶対手術してはだめだよ。説得しなさい」だったのだと思いますが、実際はちがうもので、その時はその意味すら考える余裕もなく、正直がっかりしたことをおぼえています。 その後も夫と話し合いましたが、結局平行線で、翌日もう一度、主治医の先生にお話を聞きに行くことにしました。 すると、主治医の先生が、こちらから尋ねる前に、「呼吸器外科の部長先生が、今日の朝呼び止められて、もう1度抗がん剤の治療を予定通り受けてからでも手術は遅くないかもしれない」と言われたとのことでした。 親指姫の救世主だと思いました。この後、もう一度医者である夫の友人にも相談をしましたが、「日本で3本の指に入る呼吸器外科の部長先生がそういわれるならそうした方がいいと思うよ」ということでした。やった!!2人目の救世主です。この時初めてぼんやりだった〝助かる、治る〞というメッセージが確信に変わったような気がしました。 ありがたいことにジャストに通う日は夫の体調も上がってくるのです。年が明けて初めてのまゆつばさ劇団公演のときには、亡くなった父が作ってくれていた着物まで着ることにしました。そして夫と20年ぶりに写真館で写真も撮りました。そして、暮れから気になっていた厳島神社になんと魔女のツアーで参加することになったのです。 私の中にはすでに確信がありましたし、行くことが神様との約束のような気がしました。 平和公園で胎内被爆者の方の貴重なお話を聞き、たくさんの人たちの尊い命が犠牲になったこと、でもその一方で夫がその放射線の治療を受け、効果が上がっていることを考えた時、とても複雑な思いがしましたが、私がここにきてたくさんの御霊が安らかであらんことを祈る意味が分かった気がしました。そして厳島では、ツアー参加者のみなさんに誕生日をお祝いしていただき最高の一日となりました。魔女とジャストのスタッフのみなさんの心遣いに感謝します。 そして、翌日の弥山で下山途中にあった〝晶洞〞の看板に強く心をひかれたのです。 〝晶洞〞の晶は私の名前の1文字です。急いで下山していたのでよく見ることができませんでしたが、帰宅してから調べると、「岩石鉱脈などの内部の空洞」と書いてありました。そして読み進んでいくと関連ワードの中に「肺空洞」の文字があるのです。気になってそれをタップすると「肺結核、肺がんなどで病巣が壊死に陥った結果生じた空洞」とでているではありませんか。私はこれを見るために弥山に登ったのだと思いました。何の根拠もありませんが、そう思いました。 そして、4回目の抗がん剤治療が終わり、3月の初めにもう一度PET検査を受けてから手術の判断をすることになりました。 するとなんと「治療の痕跡はあるものの、異常集積はみとめられない。」との結果がでたのです。「ここで、手術をする意味はない。ここで、手術をして病理検査をしてもがん細胞は見える範囲では検出できないほどのレベルです。」と言われました。 結局私たちは何の選択もしませんでした。悩み、苦しみ、涙も流しましたが、手術の方にいこうとしても、神様が軌道修正してくださり皆が納得した形で治療を終えることができました。私たちがしたことは神様を信じ、自分の体に感謝し、1日が平穏無事に終わったことを毎日感謝してその日その日を一生懸命に生きてきただけです。そしてもうひとつ言えることは父の死で学んだこと「治療に際して疑問に思ったことはとことん納得するまで聞く」ということを貫きました。それができる主治医の先生と出会えたことも運がよかったのだと思います。 そしてなんといっても魔女が受け取ってくれたキーワードとシンクロする自分のキーワードを道しるべにやってきたからこそ、ここまでこれたのだと思います。 魔女が言っていたことを思い出します。 『神様のメッセージがなければ暗い道を目をつぶって歩いているようなものだ』と 神様のメッセージがあったからこそ、その光のさす方へ歩いてゆけばよかったのです。 本当に、宇宙真理を勉強する機会があってよかった。 |
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東京での気功ヒーリング日程とお申込 |
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グループヒーリングを受けられた方の感想 | ||
●K.Mさん グループヒーリング ヒーリングを受けてとても自分オ中にあったわだかまりに気付き許せるような気持ちになりました。優しさあふれたヒーリングに涙しそうになりました。柔らかいひとときをありがとうございました。 ●匿名さん グループヒーリング いつものヒーリングに比べ短い時間でしたが、エネルギー走りっぱなし、鳥肌がずっとたっていました。首の後ろに3つの赤い斑点みたいなものまで出てきて又ビックリ!宇宙エネルギーさんとつながる幸せを感じて行きます。ありがとうございます。 ●Y.Aさん グループヒーリング 魔女社長様、ありがとうございました。短い時間でしたが頭がクラクラする程のパワーを頂きました。ヒーリング中も川の水で流されている感じでした。起き上がっ時もクラクラ・・・・・倒れそうでした。金運のパワーを頂き金色の丸い物が出てきました。なんかこれから先良いことが起きそう~です。大変大変ありがとうございました。 ●N.Hさん グループヒーリング 魔女社長から良いお言葉を頂きました。今日も又パワーを頂きました。ありがとうございます。次回も又よろしくお願い致します。 ●Y.Kさん グループヒーリング 先日ヒーリングを受け気が上げ上げでしたが、その日の帰途他で、エネルギーをとられて具合悪くなりましたが、今日は又再び充電して頂きました。感謝です。 ●N.Dさん グループヒーリング 音楽と香り、先生の話し声で、異空間へトリップしました。斜め前、上方に向かって道ができそうなモヤモヤした感じがしました。太鼓の音と音楽が合わさった時、チベットの僧侶のイメージが見えた気が...。終わって座った時に、左半身にゾワァーっと鳥肌が立ち、左右で全く感覚が違っていました。先生、すごい! ●匿名さん グループヒーリング プチヒーリングがプチっぽくないくらいの気持ちよさで、体中ゾワゾワでした。本当に受けて良かったです。ありがとうございました。 匿名さん グループヒーリング とてもいい匂いの中、ヒーリングされ、とても気持ちよかったです。選んだ色にも意味があるのだと思います。ありがとうございました。 |
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